ログイン実花の頭は走馬灯のように今日の一日を巡った。
第五火曜日だった。
今月は火曜日が五回あり、実花は何ごともなく放課後を迎えていた。
(今日はバイトもないし、真っ直ぐ帰ろうかしら)
そう思っていた実花のところに女生徒が二人は知ってきた。
二人は別々に違う方向からやってきたが。
「「藤宮さん! お迎えです!」」
言葉も興奮した内容も一致していた。
「迎え、ですか?」
そんな予定はなく、どこからという気持ちで実花は彼女たちに聞いた。
「「藤宮様/東国様です!」」
「……ええっ!?」
実花は大きな声をあげたが、女子生徒たちのざわめきのほうが勝った。
彼女たちはこれまでしていた会話など捨てて、昇降口に揃って進み、綺麗な所作だがすごい速さで靴を履き替えると校門に向かって滑るように移動していった。
校門の前。
黒塗りの高級車と夜空のような深い紺色の高級スポーツカー。
それぞれ
球場の歓声が遠くなった気がした。「どうした?」光也の声が聞こえる。「君は、どうしてそんなことを?」問われているだけだ。責められているわけではない。光也の顔にも、実篤の顔にもあるのは不思議に思っているだけ。光也の声音に猜疑心などない。実篤の表情にも警戒などない。それなのに胸が苦しかった。(どうしよう)二人に隠し事をしていることは確かだ。だからだろうか。ただ不思議に思われているだけなのに、追及されている気分になる。「その……」言葉が続かないでいると、実篤が口を開いた。「落ち着きなさい」穏やかな声だった。「誰だって勘違いはある」「そうだ。ユニフォームを着ていたら区別しにくい」二人の気遣いに、実花は曖昧に笑った。勘違い。その一言で済めばどれだけ楽だろう。(勘違いじゃない)知っている。その選手は世界大会に出る。活躍もする。実際にテレビで見たのだ。前の生がある。(言えるわけない)私は死んだ。そして、この十年前に戻った。そんな話、誰が信じるのだろう。自分だって同じ立場なら信じない。頭がおかしくなったと思う。だから言えない。言えないのに。言ってしまいたい自分もいた。◇◇◇怖い。心の奥で、そう叫ぶ声がする。恒一が怖い。一ノ瀬恒一。名前を聞くだけで胃が重くなる。電話がかかってくるだけで身構える。穏やかな笑顔が怖い。優しい声が怖い。なぜなら、知っているから。あの穏やかさも、優しさも、藤宮家を手に入れる
試合が動くたびに球場が揺れた。打球が飛ぶ。歓声が上がる。惜しい当たりならため息が漏れる。その一つ一つに、二万人を超える者たちが反応する。「そこで振るのか」実篤が唸りながら腕を組む。「初球から行くべきだったな」「結果論はやめましょうよ」光也が即座に反論する。「追い込まれる前に勝負する選択肢もあった」「勘でやる時代は終わったんですよ。いまはデータです」「インテリぶりおって」「才色兼備に越したことはないでしょう?」(……また始まった)。実花はホットドッグを食べながら苦笑する。ハラペーニョの辛味が鮮烈で美味しい。(こっちも娯楽ね)真剣に議論する二人を見る。本人たちは気づいていないが、かなり楽しそうだった。ずっとこんな調子でよく飽きないと思ったが、楽しければ飽きないはずである。(不思議だわ)実花はグラウンドへ目を向けた。前の生でも野球は見ていた。時間だけはあったから、かなり見ていたほうだと思う。だが、目の前の光景と記憶の中の野球は全然違う。◇◇◇夜。一人きりの部屋。やることがないから、眠くなったら寝ようと思って部屋はもう暗い。野球の中継を映すテレビだけが明るかった。時計を見る。十時。恒一はまだ帰ってこない。試合が進んで、ピッチャーが代わる。時計をもう一度見る。十一時。まだ帰ってこない。連絡もない。どこにいるのかも分からない。帰ってくるのかさえ分からない。『旦那様は今日は遅くなるそうです』使用人から聞いただけ。遅くなるとは何時なのか。待っていれば帰ってく
「なんだその格好は」実篤にそう言われて実花は目を瞬いた。その台詞を今の実篤に言われるとは思わなかったからだ。(お父様はチームユニフォームを着ているのに?)濃淡が違うだけのグレーのスーツばかり着ている。それが実花の中の実篤のイメージだった。いまの実篤は色鮮やかだ。胸元にはチームロゴ。首にはタオル。背中にはリュック。しかも、そのリュックからは応援旗らしきものまで覗いていた。「お父様……」実花は思わず凝視した。「その格好は一体……」「私のことはいい」即答だった。だが全然よくない。父親のリュック姿など初めて見た。応援旗などなおさらだ。どう見ても今日思いつきで買ったものではない。「これは一昨年の期間限定ユニフォームだな」「一昨年!?」(つまり、これは家にあったの……?)実花は衝撃を受けた。.「全く、東国君に任せるのではなかったよ」実篤は眉を寄せる。「なぜ実花はこんな格好でここにいる」「……」実花は自分の姿を見下ろす。ショートパンツもスポーツソックスも、これまでの実花ならば着ようともしなかったもの。(やっぱり……)少し落ち込んだ。自分でも慣れない格好だったが、使用人も光也も似合うと言ってくれた。それでも父親から見れば似合わなかった。父親なのだから、似合わないものを似合うとは言わないだろう。だから使用人も光也もあれは社交辞令で、似合わないが本当だったのかもしれない。「来なさい」「はい……」実花は素直に頷いた。売店に行くと言ったのだから、今すぐ帰されるわけではない。そう思うことにした。(それに、お父様が不機嫌なままで
目の前で、光也が目を見開いている。明らかに驚いている。(鉄仮面と評される東国さんを驚かせたと思えればいいのに)顔に集まった熱は治まらない。それどころか、どんどん熱くなる気がする。光也の唇が小さく震えたからなおさらだ。「……笑い飛ばしてくださいよ」「悪い」謝らせてしまった気がして居たたまれない。しかも光也に謝らせたと思うと頭が混乱する。「うん」光也の声がしたと思ったら、顎から光也の指が離れた。そのまま光也の手は実花の頭に向かう。 ポンッ軽い衝撃を感じた。「君の可愛いおねだりに負けて今まで何も食わせなかった俺のミスだ」「……強請ってなんていません」強請った記憶はない。ただ夕食をどうするか聞かれて「球場のご飯を食べてみたい」とは言った。(おねだりではなかったはずだわ)照れを隠すため、実花は変なところで意固地になっていた。「しかし」光也にしては煮え切らない声がした。「何がいいか分からんな」光也の言葉に首を傾げた。「東国さんはここに来るのは初めてなんですか?」「ときどき来るが、飯を買ったことはない」光也がスマートフォンを操作して、スタジアム内の売店が並ぶ一覧表を実花に見せる。「こんなに……」ホットドッグ。フライドチキン。ハンバーガー。丼物。カレー。スイーツ。想像以上に種類が多い。「たくさんありますね」「何を食いたい?」(丼物にも惹かれるけれど、野球観戦なのだから……)「ホットドッグを食べてみたいです」野球の世界大会を見たとき、ホットドッグを楽しそうに食べていた観客を思い出した。「分かった。買ってくるから待ってろ」
「……すごい」このスタジアムを遠目に見たことはある。だがこうして来て間近で見ると、巨大なスタジアムは夜空に浮かび上がって見えた。周りにも背の高い建物はいくつもある。東京の中心部だ。しかし、このスタジアムの存在感は圧倒的だった。外壁を照らす照明。行き交う人々は様々なデザインのユニフォームを着ている。試合開始前だというのに、周囲はすでに祭りのような熱気に包まれている。皆が一斉にスタジアムに向かって歩き、入口でそれぞれのチームに分かれる。「入場行進みたいです」「日本人は整列が上手い」「楽しい……です」「それは良かった」野球中継で見たことはある。でも実際に来るのは初めてだった。光也に案内されて中に入って驚く。ドームだと思ったのに外が見える。屋根の向こうから夜風が入り込んでくる。「屋内ではない、のですね」「開放感があったほうがいい」「……開放感」光也の言う通り、ざわめきが風と共に抜けていくのが気持ちいい。「気に入ったか?」「はい」実花は素直に頷いた。「想像していたよりずっと大きいです」光也は微かに笑った。「まだ驚くのは早いぞ。試合はこれからだ」.光也に案内された席に来て、実花は戸惑った。「……え?」思わず周りを見渡す。周りの席は映画館のように席が階段状に並んでいるのに。(……ソファ?)胸ほどの高さの壁で仕切られたプライベートボックス。長いソファ。テーブル。バックネット裏だから球場全体を見渡せる眺望なのに。「モニター? あそこで野球をやるんですよね?」実花はグラウンドを指さす。光也は当然と言う顔をする。「あっちも
「髪……?」光也が訝しげに自分の髪へ触れた。「……どういうことだ?」不思議そうな光也に、実花は首を傾げた。「少年野球って、みんな坊主頭なのでは?」数秒の沈黙。光也は理解できない顔をしたまま。「ぶっ……!」吹き出したのは二人の傍にいたスタッフだった。「あはははははっ!」堪えていたものが決壊したようだった。腹を抱えて笑い始める。「そ、そうか!」他の誰かが言った。「確かに野球少年といえば坊主!」「なるほど!」「いや、そのイメージはもう古くないか? いまどき坊主頭って」笑いが周囲へ伝染していく。それ以前から実花と光也は注目を集めていた。二人の様子をそれとなくみんな見ていたから、笑いの伝染は早い。実花は戸惑った。「可愛い……」そんな実花を見た誰かが言った。「天然って感じで、可愛い」「確かに」「放っておけない感じで可愛い」可愛がるような周りの反応に実花は困惑した。(そんなに変なことを言ったかしら)光也を見る。「……坊主頭ですよね?」思わず確認するように光也に尋ねる。「知らん」光也は即答した。「え……」自信があっただけに、実花はしゅんとした。そうではないのか。落ち込む実花の様子に光也は一つ息を吐く。ぽん、と実花の頭に手が置かれた。「坊主頭かどうかは知らん」もう一度言う。「俺は子どもの頃はアメリカにいたからな」実花は目を丸くした。光也は続ける。
ほどなくして店員が新しいカップを運んできた。「ブレンドです」湯気の立つコーヒーが父親の前に置かれた。深く焙煎された香りがふわりと広がったが、父親はまだ険しい表情を崩していない。実花はそんな父親の様子を気にしてしまい、横目でちらちらと視線を送ってしまった。しかし、光也はまるで気にした様子がない。無言でテーブル中央のシュガーポットを実篤のほうに押し、その自然すぎる動作に実篤がぴくりと眉を動かした。「……するべき気遣いが違うのではないか?」その低い声にはもっと他に説明や謝罪があるだろう、という意味が滲んでいるように実花には感じた。しかし光也は意に介した様子もない。「コーヒーには
「お父様……?」突然の父親の登場に、実花は呆然と目を見開いた。店の入口に立つ父親は、明らかに様子がおかしい。いつもなら髪の乱れひとつ許さず、姿勢も隙なく整っている人だ。スーツの皺でさえ滅多に見たことがないほど、藤宮家の当主として常に完璧であることを自分に強いているでさえあった。それなのに今の父親はネクタイがわずかに曲がり、前髪も乱れ、呼吸まで荒い。どう見ても『慌てている』であり、ここまで慌てた父親を実花は見たことがなかった。「ど、どうしたのですか?」
「取ってきたぞー」軽い声とともに航が戻ってきた。だが席へ近づいた瞬間、その足がぴたりと止まった。「……え、何この空気」航は首を傾げる。店内の賑やかな音楽も、周囲の話し声も変わっていない。なのに、このテーブルだけ妙な静けさに包まれていた。光也はいつも通り無表情。対して実花は、顔を伏せたままぴくりとも動けない。耳が熱いのも分かっている。航がそんな自分と光也を見比べていることは、何となく分かる。でも、実花にはどうしようも
ガラス張りの扉が開いた瞬間、温かな空気と甘い香りが実花を包み込んだ。夜だというのに店内は驚くほど明るい。天井から吊るされたオレンジ色の照明が木目調の内装を柔らかく照らし、カウンターの奥ではエスプレッソマシンが規則的な音を立てている。学生らしい若者たちが笑い合い、奥の席ではスーツ姿の会社員がパソコンを開いていた。遅い時間にもかかわらず店は賑わっていて、その喧騒すらどこか心地いい。「いらっしゃいませー!」明るい声。だが、その声は途中でわずかに揺れた。レジに立っていた女性店員が、光也を見た瞬間に目を見開いたのだ。「あ……」戸惑い。驚き。そして、ほんの数秒後には、頬が目に見えて赤く